先日、あるクラスで「やっぱりお母さんとは分かり合えないわ!」というシェアがありました。
そのクラスはお母さんとの関係がテーマで
「もっと気にかけて寄り添ってほしかった」
「干渉したり、口出ししないでもっと信頼して見守ってほしかった」
と、自分が望む形で愛してくれなかったお母さんを不満に思っていました。
人と人は分かり合えない!?
お母さんはお母さんなりの愛を娘たちに注いでいたんですけどね。
大人になった今はそれも頭では理解できます。
でもお腹の底からそう思えていないから何か起こるたびに「やっぱり私の気持ちは分かってもらえない」となるのです。
そんな話になった時に
「私はそもそも人と人は分かり合えるものではないと思うの。
それが親子やパートナー・兄弟・友達であったとしても。」
と言うと「ええー!?分かり合えないのー!?」とかなり衝撃が走りました。笑
確かに言葉にするとちょっと語弊があるかもしれませんね。
でもそれは「どうせ分かり合えないんだからどうでもいい」といった投げやりなものではありません。
『分かり合えない』ということを分かっている
たとえば私の場合、主人とは好きな音楽や映画、本のジャンルは全く違うし、
目の前で同じことが起こっていても感じ方はそれぞれです。
30年近く一緒にいて、なんとなく彼の傾向は掴めているつもりだけど、今でも「そんなこと思ってたの!?」とびっくりすることが多々あります。
でもそんな私の理解を超えた彼の言動が、私一人では思いもつかない未来の扉を開いてくれたりするのです。
そしてそれはきっと彼にとっての私も同じ。
人と人は完全には分かり合えない。
だからこそ惹かれ合い、互いを必要とし、
思いを言葉や態度で伝え合って、寄り添おうとするものなんじゃないかな。
昔主人に「あなたは『分かり合えない』ということを分かってくれている。
俺の人生で、こんなに深い理解を示してくれたのはあなただけだ」と言われたことがありました。
彼は育ってきた環境の中で「同じように感じること」「同じ価値観をもつこと」「同じ行動をすること」を求められてきました。
違うことを言ったり、したりすると「何を考えているか分からない」と責められ、とてもしんどかったそうです。
分からないものを分かろうと寄り添うことで愛が生まれる
どんなに近しい人であっても、感性が似た人であっても、完全に自分と同じ人なんて一人もいません。
だから些細なことでもお互いに気持ちを伝え合うってとても大切なことだと思うのです。
その人の思いや感じ方の背景にはその人にしか分からない経緯があって、私の理解が及ぶところではありません。
そもそも誰かのことをすべて分かることなんてできないのだと認めたら、もっと謙虚に寄り添えるし、相手の思いを尊重しようと思えませんか。
「言わなくてもわかってよ」とか、ちゃんと話し合いもせずに「あの人とは分かり合えない」というのはとても横着で自分勝手なことだと気づくでしょう。
人と人は分かり合えない。
それでも分かり合いたいと願い、寄り添うからこそ、そこに愛が生まれる。
そう考えたら、何もしなければ人と人は分かり合えないっていうのは、愛を知るためのギフトなのかもしれませんね。
2015年、主人から「仕事なんて辞めて掃除しろ」と言われ、離婚の危機に立たされます。
その状況を抜け出すべく、嫌いだった掃除と向き合っていくうちに本来の衣食住の意味や
暮らしの在り方、物事の成り立ちなどに気づいていきました。
2022年、ある出会いによって、その気づきは「日本人のDNAの目覚め」であったことが分かり、
生きとし生けるものが幸せに暮らす大和の智慧を、日々の暮らしに取り戻す「やまとごころ講座」をお伝えしています。